アーサーおじさんのデジタルエッセイ569

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第569 噺家のはなし


 「だんしがしんだ」という回文を面白がっていたことがある。
他には「宇津井健氏は神経痛」というものもある。
 あ、あと「佐藤・池田総理、嘘だけ言うとさ」というのもあった、でもこれは古いな。
 ともかくも、談志師匠が亡くなってしまった。
一度高座を聴いたから、その「すごさ」と「非道さ」はよく知っている。
本題に入るまでは、ほとんど放送など不可能な話運びだったのである。
 で、今考えていることはこの噺家のやり方で講義をすることについてである。
先日、ある大学で一枠だけ、ゲストで講義をする必要があった。
まともに取り組んでみると、実に無限の方法が隠されているような気がしてきた。
ここでは要するに一点、時間内で学生に「何かを伝える」あるいは「何かを感じてもらう」という目的があるに過ぎない。
あとはぶつぶつ言おうが、怒鳴ろうが、眠ろうが、プリントを渡して読め、と言おうが自由なのであろう。

 それでも我々は、

長い義務教育で受けてきた記憶に従って、ついつい「きちんとした講義」をしてしまうだろう。でも、談志が放送禁止の内容で喋くりまくり、時間内で「何かを感じてもらう」ことさえできれば立派にお金をもらえて、ファンが生まれるように、あらゆる可能性を考えることはまんざら無駄ではなさそうである。
どうせ録音されてあとから苦情を言われるわけではないし、立派な先生だったとか、一発で尊敬される見込みも無い。
語学を一生懸命勉強している知り合いの女性が、そのきっかけとなった出来事を教えてくれたことがある。
高校生の時の英語のネイティブ教師の初めての授業で、ジーンズでふらりと教室に入って来た外国人の彼が、おもむろに教壇に腰かけ、リンゴを齧ったそうである。
そんな教え方が「かっこよくて」英語に向かったという。
「君たち、楽しんでいるかーい!」という気持ちでぶつかってみてもよさそうではないか。
               
             ◎ノノ◎
             (・●・)
               

         「また、お会いしましょ」  2011年12月17日更新


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