アーサーおじさんのデジタルエッセイ520

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第520 あかんぼうの不満


 あなたが料理に初めて挑戦しているならば、うまく仕上がらなかった成果は、食卓に出されずに三角コーナーの網の中に投げ込まれることがあるかもしれない。
もし数日そのままにしておけば腐って異臭を放つ。
 たとえればこれが、「感じ方」や、「経験」のことだったら・・・。
うまく言葉で言えなかったり、捉えきれなかった経験や感じ方は、どこか三角コーナーで臭いを放つだろうか。
 ところでなんにもことばを使えない赤ん坊は、正にその真っ只中で生きている。
幼児になって少しは意志疎通が出来たとしても、いったい世界から受け取る信号と反応という感受性が焦点を合わせる映像の何万分の一なんだろう。
まるで大きな滝の下で、小さな杯で受けた水を持って来て「どうぞ」と人に渡すようなものに過ぎない。

赤ん坊たちは、かなりあきらめて生きている。
そしてその不満の記憶も忘れられたようにも見える。
どっこい、その記憶は言葉ではない場所に保管されてしまうので、その場所の存在も忘れてしまう。
しかし、言い知れぬ不安と不満は、言葉の領域が広がった成人の時代にマグマのように吹き出したり、あるいは思わぬ瞬間に地層のように掘り起こされるかもしれない。

              *****

 赤ん坊が、言葉ではなくても受け入れられなくてはならない理由がここにある。
言語というザルのような道具のせいで、「拾われたもの」と「取りこぼす」領域に分かれて、それは脳の奥に、意識と無意識という二元的な世界を生む。
 ことばの倉庫が出来る前の頃に仕舞われた無意識の世界が、温かい幸せに満ちているか、冷たく苦しい飢餓感のような姿をしているかで、世界観が変わるかもしれない。ちょっとした苦しみの時などに、その「おもちゃ箱」のふたが開いて、昔仕舞いこんだ不思議なものを見ることがある。


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2010年11月20日更新


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