アーサーおじさんのデジタルエッセイ519

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第519 「鑑賞される」美術館


 必要があって久しぶりの地方都市に出掛けた。
商業施設のひしめく都心部にこれまでは無かった現代的でセレブな現代美術館が生まれているのを知った。
時間があるので展示内容はともかく、入ることにした。
なんと高級ホテルのような広々としたサロンや図書館、その奥に展示室がある。
午前中、オープン直後のせいか、人がいない。
展示内容は何だろう?
なに?
オーストラリア共和国の現代アート?
タイトルは「サイコアナリシス」(1,000円)。ともかく入る。
天井の高い空間。
照明は暗く、空間は幾つもの倉庫のように区切られ、そこにさまざまな音響で満たされるビデオ映像が流れている。
そう、巨大なお化け屋敷の設営のように茫漠としたパーテーションが続く。
作家名と長い解説がある。
曰く「精神分析者ラカンは自己と他者の分離からの、自己のアイデンティティを発見するが、ここでヴォルトルーバが提示するのはそれ以前の混沌とした他者と自己が提示され、問いかけている。
見る者はその映像に自由な方法で、自己と他者の関係性を不安とともに取り入れて欲しい・・・」これは、正確な記憶ではなく印象を再現しているだけではあるが、まあ、そんな文章が各ブースには貼られていて、もし、それを読まなければ一体なんだろうと、いや読んでも同じか・・・分かる内容では決してないから。
それをポジティブに、実際的に読める者は、この都市に三人ほどではないだろうか。
しかし、理解出来る人は、ここには長くいられないだろう。
各ブースの映像は15分から20分は掛かるだろうから、全部を見ようとすれば終日が必要である。
 それは海水浴場に「砂の粒は、全体として一つの塊を形成しているが、それぞれの砂粒は一つとして同じ形、成分のものではない。
それを全て観察すれば自己との関わりが違うのが観察されるはずだ。
前頭葉から自己を解き放して新たな無限の自己を発見してほしい」と看板が立っているようなもので、何も意味はない。

 暗いブースを移動する時、ドキッとした。コーナーに人がいるからだ。
学芸員の年配女性であろう。
膝かけをして、じっと視線を固定して(最初の)闖入者を監視している。
他に見るものもないからだ。
視線を感じながら私は陛下のように厳かに静かに歩くことになる。
コーナーごとの監視者以外、誰もいない。
カツン、カツン。
私は暗い中にコンクリートの映像が見えるブースに入らずに、先に歩いた。すると学芸員が立ちあがった。
「お客さま!」ドス・ドス。
ここにブースがございますが、通り過ぎられています!
よろしくお願いします。
あ、ありがとうございます。
と私は「端折る」ことを禁じられてしまった。
誠実な陛下のように再び、鑑賞に入る。
 美術館という権力、アートという絶対のブランド。
ラカンと精神分析という「葵の御紋の印籠」を突きつけられては、「また、次回にします」という言葉も出せない。
 そうか、ここでは一人が7〜8人の監視員に見られている。
どの映像の前で時間を掛けたか、どれを端折ったか、ラベルの意味が分かる頭を持ってるのか?
そういう命題に体が答えているかが、監視されている。
あ、もしかしたら私はこの空間の「作品」ではないか。
鑑賞者はあちらなのだ。
さらに私をビデオにとっておけば「鑑賞者」がブースとタイトルにどのように反応し、どのように処置するかで、主体と他者の関連が実体化される実験となるのだ。
うわ、私は「逃げられない」とどれも公平に見るかのように、自己をサイコアナリシスせざるを得なかった。


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」  2010年11月13日更新


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