アーサーおじさんのデジタルエッセイ521

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第521 眼がチカチカ


 いやなものの一つに、長距離のバスや電車での太陽の光がある。
特に疲れての帰路で、うとうととしていると、瞑ったはずの目に横殴りの太陽光線が窓越しに飛び込み、突き刺さる。
つらい。
どうして眠っているはずの目が太陽を感じるのだろうか。
どうにかシャットアウトしたつもりでも、動く乗り物の角度が変わると、また刺さる。遠くのカーテン越しであれば、閉じることもできない。
あれは金色の刃先をしたメスのように神経をさいなむ。
ビリビリと頭の奥に響く。
 これは、冬の街を歩く時にも起こる。
冬の景色は逆光では何も見えない。前を歩く人もシルエットでしかなく、ビル群を見上げてもよく見極められず、光線の放射がオーラのように目を焼く。
前を見たくとも手を翳してようやく前を行く人の脚下の長い影が見える程度である。
概して冬の景色はそんな具合である。
それは人が風景を「眼」で見ていることから起こる現象的な結論である。
こういう景色は絵になるのだろうか。

 ターナーの風景画にはこの逆光のオーラを描こうとした作品は多い。
当時のイギリスの風景画家はこういう「視覚的風景」に挑んだようで、多くの画家が港や都市の日没などを描いている。ターナーはそれでなくとも、視覚的現象にこだわる画家であった。
嵐や雨や霧は十八番である。
牧野義雄という日本人が貧乏の末、イギリスで水彩画家として名を為すが、これも「霧の画家」である。
二人とも、水彩紙をバスタブに浸けて、色を調整したところが共通か。絵という行為は、目前の客観的な世界と、人の敏感な視覚との間に横たわる新たな「世界」を探す行為であろう。


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2010年11月27日更新


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