アーサーおじさんのデジタルエッセイ518

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第518 「記憶と想像」は同じ部屋に住んでいる


 記憶が書き換えられるという話がある。
東国原宮崎県知事が少年の頃を回想していた。
一度、東京に出ようと家出を決心した。
友人がオレも一緒に付いてくると言う。
汽車の中で友人が帰ろうと言うのを、「なにをいまさら」と食い止め、上京したが、結局暫らくして舞い戻った。
けれどもこの話は記憶に拠るものであった。
後々、同窓会でみんなに話したら「違う」と言うことになった。
言い出した東国原が汽車の中で「もう帰る!」とわんわん泣き出したと言う。
それをなだめて東京まで友人が連れて行ったらしい(談)。
想い出は随分とバイアスが掛かるものだ。
彼は知事にして、笑われてもOKの人であるのが幸いであった。

 ところで、ヘレンケラーの場合のように悲惨なケースもある。
 彼女はある時に、感じたことや情景を文章に連ねた。
そしてそれを発表したのだが、それが騒ぎになった。
出典があり、その盗作だというのだ。
ヘレンケラーはびっくりした。そんな覚えはまったくない。
しかし確かめると、ほとんど一字一句が似通っていた。
本当に驚いたのは結局、ヘレン自身だったのだ。
 これについて説明しよう。
ヘレンはいつも文章を書く前に、頭の中にそれを構築する。
そしてそれを見えない状態で記していく。
記されたものは通常の人のように、目で確認されるのではなく、頭の中にあり続けるだけである。
ところで、そういう思考の他にも彼女は点字や朗読で膨大な文章を読み、感じ取り、記憶(刷り込みとして)していく。
そしてさらにそれらのエレメントは吟味され、ミックスされ継ぎ合わされて、自分なりの文章に構築される。
つまり、全てが脳の同じ部署に蓄えられているのである。
ここから引き出されたものは、すべて彼女の真実であるはずだが、ソース(源泉)にはもう名札がついてはいないのだ。
あることを記述するのに、同じ場所から引っ張って来たら、たまたま外部から取り込まれて、自分の内面になった加工する必要のないものだったようだ。
 彼女は自分の「人生」を疑わなければならなくなった。
その時の創造だと思ったものは、あり合わせの材料だったのだ。
しかし彼女には、どれが自分でどれが借用なのかを切り分ける手段がない。
すべて同じ場所から引き出すのだから。
我々が、自己体験と疑似体験を区別できるのは、十分な視覚記憶、聴覚記憶の倉庫との照合がされているからだと言える。
 それでも我々も意識しないだけで、大なり小なりオリジナルでもない世界で生きているのではないだろうか。
素材はもうどこのものか、いつのものか分からないのだから。
         

             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」  2010年11月7日更新


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