アーサーおじさんのデジタルエッセイ594

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第594 言えないことばかり


 生きていると、そんなになんでもうまく行くわけではない。
心の奥でごそごそしていることとか、気持ちとかが、ぶわーっと思い切り出せてるわけではない。
1歳くらいの子供を見てると、いつでも何かしたいらしいが、あわあわと伝えられなくて困っているようだ。
そのうち、おしっこがしたくなったり、いやになったりして、それも伝えられないのに、いろいろと大人から言われるので、とりあえず使うことのできる「エーン、エーン」ですましてしまうらしい。
それが3歳ともなれば、随分と意思の伝達が出来るようになるではないかと言うことになる。
もちろんそうだ。
けれどもそれは「伝えられること」に限って使用できるのである。
とりあえず、食べたり遊んだりするための基礎用語が話せるということ。
実は相変わらずもわもわとした原始的哲学的なことは言えないで過ごしている。
しかしそれ以上の言葉はとりあえずなくてもその日を生きるのには困らないので、まあまあ満足して過ごしてしまう。

 そうやっていつしか大人になる。
けれど、実は成長期のころに伝えられなかったことは相変わらず、伝えられないでいるのだ。
だって、そのための言葉は相変わらず習っていないからだ。
「それいいじゃん」
「マジ!」
「言うじゃない!」なんて、のりに乗ってしゃべっているくせに、ほんとうにしたいことには触れてない。
なぜならその「したいこと」をきちんと自分に説明してその場で調整する言葉がないから、「うーん?」とか唸りながらも、やめちゃうのである。
陽炎のように身体から消えてしまう。
こうして僕らは、ほんとうに追い掛けたかった事柄を忘れることになる。
よく考えれば、本当に見たいものは見れず、行きたいところには行けてないのかもしれない。
コンビニで指さす程度のつたない言葉で生きている。
糊づけされてしまった文庫本を開くことが出来ないように、その本のことをあきらめてしまうのだ。
そのうちにコンビニの店員に品物を渡す程度の人生の中で生きていく。
ほんとうは私たちは、心を広げて知らせるだいじなことがあったはずだ。
誰もがいやがろうが見せるものを持っていたはずだ。
誰もが芸術家であったはずなのに。  

            
             ◎ノノ◎   
             (・●・)
               

         「また、お会いしましょ」  2012年6月23日更新


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