アーサーおじさんのデジタルエッセイ563

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第563 あきらめましょう。ぱっぱっぱらっぱ


 歌とそれを聴く心は、テレビの電波と受像機の関係に似ている。
うまく受信された時にきれいな映像が映るのである。
 その時、私は駅の反対側のあまり使わないスーパーマーケットを回遊していた。
休日のお昼ではあるし、決められた買い物は何もなかったのである。
乾物や菓子・飲料の棚をくぐり抜け、開放的な広場のような鮮魚のコーナーをうろうろしていた。
店内のスピーカーが歌を流している。
「あきらめましょうーーーーーー、」と歌う。
あれ、懐かしい。
ずいぶんと以前の華原朋美の曲ではないか。
嫌いな曲ではない。
あの力の抜けた節、ざっくりと言い切った歌詞。
邪魔ものなく頭に入って来る。
「あきらめましょう、」
「あきらめましょう。ぱっぱっぱらっぱーーーー、」
 その時、思わず何かが体の中心に伝わって来る気がした。
そして、じんわりと視界が滲んで来た。
そうだ、あきらめればいいんだ。
力なくあきらめてしまえばいいんだ、と思えた。

 でも、何をあきらめるんだろう?
 その対象が分からないのに、「その通りだ」と言ってどうなる、とも思うが、やはり背中をさすられたような安堵感に似た安らぎが波になって寄せたような気がした。
 運命的な難病で、毎日を苦しむ人がいる。
望んだ業績や地位を得られず、仕事を諦める人もいる。
本当はそれらの希望が自分の能力をはるかに超えているということを認めたくなかったり、認めさせてもらえなかったりするかもしれない。
こういう時に、誰からか、あるいは自分自身の肉体の声で「あきらめましょう」と言えたならどんなに気が楽になることだろう。
 ところで、私はどうして涙が滲んだのだろう。
いったい何をあきらめよう、と思ったのだろう。
分からない。
しかし受信機に電波が届いた。
見えない心の奥で映像が結ばれた。
私は自分でも気付かないことに力をすり減らして苦しんでいたのだろうか?
それに触れられて息が漏れたのか?
なんでもよい。
そこに隠れていた氷の塊が解けたのだろう。
 諦めるためにも、力が要るし、充分なプロセスが必要である。
簡単に声にすることが出来るわけではないのだ。
もしかしたら諦めた人は「それをやすやすと手に入れることの出来る人々」よりも遥かにその世界を舐め尽くすほど味わったかもしれない。
その上で自分の宿命とは違うということを理解したなら、残りの時間を軌道修正に使わねばならない。
それが重要なミッションとなる。
その折り目で、声を掛けてくれる人がいたら嬉しい。
華原さんがギターを掻き鳴らしながら歌ってくれるなら、それは嬉しい。
しばらくそこで休息させてくれれば充分なのだから。
  

             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2011年10月22日更新


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