アーサーおじさんのデジタルエッセイ509

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第509 借りぐらし


 どこだったか、甕棺が出土される遺跡を訪問した。
立派に屋内施設になっている遺跡の管理人がしきりに「人間ってほおっておくと水になるんです」という。
発掘された古い時代の甕棺を開けてみても、中からは骨と水が出てくるだけと言う。
ではどこに行ったのか。
その骨を包んでいる土になったのだろう。
土のようになったのではなく、ともかくも土になったのだ。
こうやって人体は「ほかの物」になる。
「ほかの物」とは元の自然である。

 我々は3000グラム前後で生まれて来て、お母さんからおっぱいをもらい、いろいろ食べて体重を増やす。
手短の野菜や動物を食べたのに違いない。
すっかり大きくなると自分よりも大きな家畜を倒して肉も食べてしまう。
そうしてみても、宇宙空間で自力で結晶するわけでもなく、あちこちからのもらいもので体を作るわけである。
一生の間にどれだけの、魚や動物、植物を「借りる」のだろう。
 村上春樹氏の作品に「その夏、僕たちはプール一杯ぶんの缶ビールを飲んだ」というような表現があったが、いったいどんだけ、水分を摂るのだろうか?
そういう風に、飲んだくれてトイレに行く我々。
それは一つのパイプであるということだ。
それにしても水分以外はほとんど、生命由来の有機物である。
野菜、海藻、魚類、肉、つまり他の生命の破片をもらうのである。
それを摂取し、吐き出す。
つまり我々は「いのち」を吸い取り、吐きだす柔らかいパイプである。
考えようによっては随分と我儘で無駄をしている命のパイプである。
それで一体何をしているの?


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2010年8月28日更新


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