アーサーおじさんのデジタルエッセイ477

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第477 ポトラッチ 


 テレビでハイチの巨大なスラムでの黒人生活が映されていた。
国連のゴミ捨て場には、多くの黒人の子供たちが暮らしている。
それはゴミ車を待つためである。
車が来ると彼らは殺到し飛び乗る。
吐き出されたゴミに飛び込む。
軍隊が銃で威嚇しても収まらない。
なんだろう?
資源回収かと思えば、子供たちはゴミの中から食べ物に見えるものを奪い合い、食べ始めた。まるで池の鯉が餌に群れている光景。
シャツや靴の廃棄物にも奪い合いが始まる。
もう、毒になった腐敗物しか残らない。
こんな現実が美しい紺碧の青空の下で行われている。
もう言葉はない。

 豊かになれば分配が行き渡るとはいえない。
 いつでも必要な食料が公平に分配されたためしはない。
都内の公園や派遣村ではスープの配給がある一方で、テレビでは何百万円もするワインでのディナーが紹介されて人々を魅了する。
ミシュランの店を誰もが訪れるわけではない。
「無駄」は人々が憧れる。
個人で行う「無駄」は内需拡大として社会的に認知され評価されて存在する。
過度なプライスが褒め称えられる。
それを他者や社会に還元すれば、絶大な効用が考えうる場合であるほど、意味が生まれるらしい。
社会学で言う「ポトラッチ」のことを思い出す。
食べ放題のバイキングでは、皿に山ほど食べ残された食物を見る。
老人が立っているのに電車の座席は荷物で占有されている。
ヨーロッパの都市では家のない人々がいる一方で、投機のために買い占められて空家になったビルが立ち並ぶなど、新たなポトラッチは限りがない。
周辺の重大な犠牲の上に成り立っている。
その犠牲の大きさがポトラッチの光となるのである。
 いや、言葉の使い方に誤りがある。
語源の「ポトラッチ」は本来は自分への消費ではなく、ゲストへの潤沢で神がかり的な饗応・贈与を意味したはずだ。

             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2010年1月15日更新


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