アーサーおじさんのデジタルエッセイ454

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第454 GARA号の船長の質問


 小さいが贅沢なそのヨットは「ガラ号」という名がついている。
船長が恐る恐る尋ねる。
「サルバドル、ちょっとぶしつけな質問かもしれないが、ひとつ訊いてもいいかい?」
 サルバドル・ダリは、いいとも、と肯く。
「あのー、ガラのことだけど。彼女のどこがそんなにいいんだね?」
 ダリ、ちょっと間を置いてから、目を細め、人差し指と親指の間に隙間を作って差し出すと、もしガラがこのくらいの大きさだったら、私はもう、食べてしまうだろうね。と笑った。
「わたしは、それ以上何にも言えなかったね。」(テレビ放送から)

            *******

「天才画家」ダリは晩年、古くからのパートナーであるガラの言いなりで、城を買って与えたり、孤独に暮らしていた。
ガラはダリをコントロールしているだけで、愛しているようには見えない。
贅沢三昧で若い男と遊び放題。
周囲から見ても、ガラにいいようにされる日々でありながら、ダリは絵の中では彼女を聖母マリアに見立てて描くことが多かった。
 詩人ダンテのベアトリーチェや、ドン・キホーテのドゥルシネーアの名を思い出すまでもなく、男性は女性の存在を絶対化して、心の深層に刻み込むことが多いようだ。
何故だろう。
そしてそれは「よい」ことなのだろうか?
人が現実の人生を生きていく上で、生身の人間を見失わないことと、人生の奥に神のような絶対的な存在を作り出すこととは、どちらが望ましいのだろう。
 動けぬ老体のまま火事に会い、火傷を負ったダリは、「私は死なない」と叫ぶ。
作品をよく見ると、聖母の姿をしたガラに顔がないものがある。
またある一枚は鬼のような醜い表情をしたものがある。
むしろ私はそれに救いを見る気がするが、どうだろうか。
 (冒頭の「食べる」には、「それくらい愛している」という意味と「殺して自分の中で決着をつける(消化する)」と言うどちらの意味にも取れるかも知れない)


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2009年7月26日更新


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