アーサおじさんのデジタルエッセイ239

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第239話 石油ストーブの匂い


くすんだ窓の光の下で、石油ストーブを点けようと燐寸を擦る。

乾いた「シュッ」という音。

白い油煙がゆっくりと上がって、やがて芯に火が回る。

「ボッ!」その時にツーンと石油の匂い。

幸せなような切ないような。

いつも思いだすのは中学生の時に通った「漱石の家」(旧居)である。

冷えた縁側。ガタガタと風に震えるガラスの嵌まった戸板。

庭の池は淀んで枯れ葉が浮いている。

樹木の裏側、影は墨色に落ちて暗い。

便所の横にはヤツデの葉が揺れている。

客間だったと思われる広間は先生のアトリエであり、夏の間に陽に焼けて黄色くなった畳は絵の具の滴りで汚れている。

畳は靴下の足にも充分に冷たい。

ガサガサと畳みを擦って先生が入って来る。

床の間の柱を背に、立て掛けた僕の絵の正面に来る前に「描き直せ!」と叫ぶ。

そして少し笑う。(少し良くなった、と顔が言っている)その先生は、どうしている?

元気か?

生きているか?

過去を素直に見ることの出来ない私には、過去の宝石まで一緒にして封印しているので、そこに戻ることが出来ない。

なにもかもが構造化できない。

アルミサッシなどないあの日本家屋のすきま風の寒さは、保存建築のせいだった。

「漱石の家」で油絵を描いた贅沢も、シベリア抑留者が打ち捨ててきた襤褸(ぼろ)の衣類のように、過去の物であり、かつ自分を護っていた物だった。

             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2004年11月20日更新


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