アーサーおじさんのデジタルエッセイ586

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第586 意識の波打ちぎわ(物語の生成)


 実は長い時間にわたって考え続けてきたこと。
けれどテーマが「意識の国境地帯」の話だけに、それを記述することがうまくいくかどうか分からず、これまで書いてみることを躊躇してきた。
国境とは「意識」と「意識ではない部分」の境のことである。
そんな内容なのだ。
 まず、このテーマを感じた「場」は、覚醒と睡眠のまさに中間の時間(空間?)である。
そこにはきっと分水嶺があるとこれまで信じてきた。ちょうど切り立った山岳の峰のように、光と影、あちら側とこちら側は峻厳に区別されていると信じてきたことが出発点でなる。
 −−−ところが、そうでもないのである。
 よく泥酔した人に「ブロックアウト」という現象がある。
これはある時点まで覚醒時と同様に人と談笑していたような人が、突然に酔って倒れたあと、記憶に空白ができると言うことである。
「どうして俺はこんなところにいるの?」「誰がこの書類を書いたの?」などと言い、周辺に同席し目撃した人びとを驚かす。
あれほどいつもの口調、行動形式で動いていたことが本人には認識されず、その人の個人記憶に刻まれていないのだ。
 そのことである。
私は(まるで幽体離脱のように)それを理解し始めたのだ。
まず、その場は、布団の中で横になり、アルファベットの書物を毎日毎日読むという世界のことであった。
眠くても眠くても、ページの文字を追っていた。
瞬時に本が顔に落ちてくる。それでも繰り返し、本を読み始める。
するとどこまで読んだか全く分からないが、何行も読んだあと、ふとこの単語は見たことがあると気がつく。
それをなんども何度も繰り返すことになる。
5回読んでも同じ単語にたどり着く。
それは覚醒して読んでいる状態とは言えないだろう。
 私は雪山を無謀に登る登山者のように重い足を引きずる。
すると枯れ木を発見する。
そこには小さな札がぶら下がり「私はここまで来た」と私の字で書いてある。
それを何度も繰り返す。
あ、オレの字ではないか!

 その体験を結局、何年も続けていた。
 するとその遭難行にも経験を積んだということだろうか。
かすかな意識の違いが判るようになり、覚醒側に対して少しは「報告」が出来るようになってきたのだ。
それはこういうことになる。
確かに歩いた。そこまで歩いた。
ところがいったん眠りに落ちると、ずっとふもとまで押し戻されるということである。
私は毎度、なんとかここまで来たという「しるし」を付けることが出来るようになっていた。
それはアルファベットの単語としてである。
つまりその場所までは理解していたはずなのである。
ところがである。
眠りの側に落ちると、その「理解」は波打ち際で消されるのである。
ストーリーとしての流れはずっと手前で立ち消えて行く。
握っておけたのは単語の痕跡だけである。
私は出来ごとを掴むためには、もう一度戻らなければならない。
しるしからは離れた、確かなベースキャンプを探して戻る必要があるのだ。
そのベースキャンプとは生成された物語のことである。
 このことは多くのことを語る。
体験は前進していても、人生の物語はそこまで来ていない、ということだ。
実は人生は物語として、次に起こる事件・経験によって後付けで決定されるということだ。
ある経験が、喜びの伏線にも、苦悩の伏線にもなりうるように存在して、次の駒によって初めて、「記憶される体験」に変わる。
これはオセロに似ている。
一つの駒は、ずっとずっと後に、別の駒によって、意味が決定されるのだ。
 私は睡眠の波打ち際を長い時間、しかも恐ろしく何度も繰り返すことで、それがいつも波に洗われて、「姿を変えている」ことを知ったのだ。
その幅がブロックアアウトの時間となる。そして続く新たな経験に意味付けられた時、初めて物語=意識出来る経験になるということだ。
驚いた。
人生というものは、前後の関係で創作されているのだ。
同じ体験をしている人びとに、違う物語が創られる。
翌日が昨日を意味付ける。
その瞬間までは実は記憶されないのである。
意味を失っていては記憶されることはないのだ。
もちろん、言葉を伴わない物語が存在する以上、言葉以外で記憶されることはある。
けれどそれでも意味が生まれてから初めて物語になっていく。
私はそういう意識の国境の、不法地帯を何百時間も滞空した人として、見てしまったのである。

               
             ◎ノノ◎
             (・●・)
               

         「また、お会いしましょ」   2012年4月21日更新


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