アーサーおじさんのデジタルエッセイ551

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第551 見てしまう


 都会。
朝からカフェに入る。
そこにしては珍しく町内のおばさんといった風情の高齢の女性が足を投げ出して座っている。
手には文庫本。
決して勤め人には見えない。
 ところでこの婦人は私の席の対面に位置するのでほぼ正面に顔が見える。
私は思う。
この顔は知っている。
「クリスティーナ」である。
あの有名な。
と言っても誰にでも分かる顔ではない。
実は、アメリカの画家、アンドリュー・ワイエスが世界に名を知らしめた名作「クリスティーナの世界」のクリスティーナである。
この絵は米国メイン州の淋しい農地の小さな丘に位置するオルソン家とその住人の絵であり、草の上に座った後ろ向きのクリスティーヌが描かれた細密なテンペラ画である。

 学生時代の私も心に焼き付けたクリスティーナのたおやかな姿だが、実はワイエスの知り合いのオルソン家の女主人で、小さい頃のポリオのせいで脚が不自由。
農作業にも手で這いながら敷地を移動する肢体不自由者であったが、いつも絵を描きに来るワイエスにパイを焼いたりと暖かく迎えていた。
従ってタイトルは彼女の動ける「狭い世界」のことを指す。
 作家の一連のスケッチの中に、クリスティーナの横顔があったのを後日、私は知ることになるのだが、これは鋭い老女が恐ろしげな目を剥いていた。
もちろんそんなことが絵の最終的な価値を動かすものではない。
ただ鑑賞者というものは、後ろ姿に自分勝手な理想的な姿を当て嵌めてしまうらしいことが、絵を輝かせていたのは間違いないだろう。
 で、カフェの私は、ついつい彼女を見てしまう。
まるで好きな人のごとく。
恐い、と思いつつまた見てしまう。
人には、恐い、いやだと思うものに惹かれるという深層心理上の性質があるらしい。
「イヤだから見る」というのは、本能的に与えられた機能かもしれない。
イヤなもの、嫌いなものは、その主体の存在にとって重要である訳だろう。
命の危険、生命の改変に関わるものは見るようにできている。
 アフリカに住む小動物は、大型の天敵を警戒するが、その傍で平和に過ごすことが出来る。
例えばワニを警戒する鳥、ライオンを警戒する哺乳類。
しかしいったん天敵が視界から消えると、不安で消耗するという。
敵からは限りなく逃げたいのではなく、いつでも対抗する体制と距離、そしてその計算が生存を保証するという原則があるのだろう。


             ◎ノノ◎
             (・●・)
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         「また、お会いしましょ」  2011年7月17日更新


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