アーサーおじさんのデジタルエッセイ530

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第530 洗脳の現場


 様々な芸術は、私たちの現実の生活とは違う世界を持っている。
それは、パラレルな異世界だと言える。
そこにうっかり享受者としてのめり込んだ我々は、たいていその出口をまたいでから「あれ?」と現実に違和感を感じることもある。
もちろん、その芸術が一流であるか、「錠前と鍵」がフィットするように、その瞬間の享受者の心理に合わなければ、違和感は起こりそうもないが。
 たとえば心に響く演劇舞台や音楽演奏、そして映画などを見たあとのそれである。
我々は何か遠い夢のような旅から帰った瞬間のように、新たな心と経験に満たされて、仲間の手を握っているようなエネルギーを得ているかも知れない。
もちろんその反対のこともある。
世界の望ましくない真実に触れ、体内から何かがげっそりと剥がされてこれからどうして生きて行こうと考え込んでしまうかもしれない。
 さて、印象派という絵画がフランスを中心として存在した。
昨年から今年にかけて、随分とたくさんの印象派の絵画の展覧会があった。
ほんとうの歴史がどうであろうと、その巨大な渦の中心にはモネという人が存在するように見える。
それは怒涛のような嵐が静まり、埃と煙に包まれた視界がやがて取り戻されたあとに、その建物だけが立っているような存在感である。

 ジヴェルニーという地方での数多の画家の行動と活動。
それを整理してみせてくれる展覧会があった。
様々な技法や視点で、光に溢れた風景が試される。
会場にはやはり数多の人々がいつもよりは少しだけ気取った服装で水族館のような額縁を眺めて移動する。
帽子、メガネ、カタログ、背中から見る上等のコート。
ざわざわと思い思いの声があがる。
最初の曲がり角から、順路に沿って覗き込んで行く。
初期の光の表わし方を試す画家たち。
誰かが新しいモチーフを発見する。
ジヴェルニーの田の積み藁などがそうである。
すると他の画家がそれを追求する。
色の制限から次第に自由になる。するとそこを追求する者が出てくる。
光は激しい色に分解され始める。誰かが形体から自由になる。
すると画布は色面として解釈され始める。
 そうやって、美術館の迷路がクライマックスのコーナーに入ると、人々が静かになる。
そこからはモネの睡蓮の絵が並んでいるのである。
光もタッチも原色もあるにはあるが、何も主張しているようには見えず、静かな池の空気と風と自然の囁きだけに変わる。
色彩があるにはあるが、それが絵の具などと言う物質などとは考えられない。
 そこに立ち尽くす人々の後ろ姿を見るとき、「あ、」と声をあげる。
 「洗脳された。」
 たかだか数ミリの絵の具の盛り上がりで出来ている画布に私たちは「洗脳」されたのだなあと、不思議な気分になる。
 ミュージアムショップで複製を眺めながら、「これらは先ほどのものとは何と違うのだろう。
私だけがそれを知っている」と誰もが思うのである。


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」  2011年2月13日更新


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