アーサーおじさんのデジタルエッセイ394

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第394 天使の振り撒いた粉


 何十年も前、新聞に「しわがれた椎茸が笑っている」大きな広告があった。
「老人」である彼は他の者にこう言うのだ。『枯れてからじゃよ、お若いの。』これは意味が判らなかった。なんで枯れてからなの?
 ところが今、それがわかるのだ。いや、少しずつ分かってくるようなのである。
若い頃は、何でもかんでも面白く楽しかった。おそらくその物や事柄の価値にあまり関係なく楽しめたのだ。
起きているのも、眠るのも、成功も失敗も、なにげに楽しめた。
ヘマも失恋も笑いの種になり、結局のところ面白かった。
何故だろう。
それは青春の「万能の粉」が振りかかっていたからだ。
言うならば、味のない料理に、塩や砂糖や各種のスパイスやトッピング、そういう様々な効果を持つ万能の「天使の粉」が気前良く振りまかれていた。
口に運べば何もかも美味しく味わえたのだ−−−それが今消えている。

 トッピングもスパイスもなく、物、本来の物が目の前に晒されて横たわっているだけである。
もはや味はない。
暫く舐めて、目を閉じて、噛み締めないと、何も届いては来ない。
最初は淋しくて、悲しくなるほどである。
 しかし、次第にそれが意味あることに感じられる。
「ものごと」の本来の姿が現れてくるから、それが味わえるからだ。
 薄くあまいものには、喜びがやってくる。
そうでないものからも悲しみや、淋しさの鼓動が伝わってくる。
そうか、人生の日々の華やかな衣装を剥ぎ取ったあとには、こういうシナリオが隠されていたのだ。

             ◎ノノ◎。
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2008年1月20日更新



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