アーサおじさんのデジタルエッセイ280

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第280 ほんとうらしさ


 映画にほんとうらしさを感じるのはどんな時か。

わからない。

いつも嘘のようだ。かっこいい。

かっこいいという、そのことがほんとうらしさを奪っている。

ハリウッド映画では人がばんばん死ぬ。

大作ほど大勢が死ぬ。

一人が死ぬ映画よりも、十人が死ぬ映画。

さらに百万人が死ぬ映画のほうが大作である。

でも「ほんとうらしさ」はどんどん遠ざかる。

 ドキュメントに沿ったシナリオで作られた映画を見た。

誘拐の場面があった。

恐かった。

すごかった。

その誘拐では人は死なないし、少女は誘拐犯に捕まらなかった。

「イヤイヤ、きゃー」と騒ぎながら腕を振り解いて逃げた。

銃を突きつけながらも、犯人も警備の使用人も銃を撃たなかった。

それだけだ。

 何が違うのだろう。

 そうそう、銃は撃てないのだ。

銃を撃つと犯人や人質が死ぬ。

死ぬと犯人側からの報復がある。

あるいは、警察の本気の追及が始まる。

この治安の悪い国(ラテンアメリカ)では、成功しない誘拐で、人を殺すことがないのだ。

「身代金を手にすること」が目的であり、「銃を撃つ・人を殺す」ことは目的に外れるどころか、根本のスタンスを危うくする大失態なのである。

その本物の事情が感じられたのである。

彼らは警察の本格的な追及からの負担や、重い裁判での苦痛を上手に避けることを求められている。

無理ならば、さっと手を引っ込める。

10歳のお嬢様を抱きかかえる犯人に銃を突きつけ、犯人も銃をかざしながら決して撃たない。

女の子は手を振りほどき、車に押し込められないように走り去る。

犯人は舌打ちをし、警備員にも銃を突きつけながら、車に乗って逃走する。

警備員は目の前でそれをじっと見守る。

車が去るとお嬢様を確保する。

誰も報復はしない。

平和が戻る。

それだけである。

人は事件に生きるのではなく、その後につづく「日常」に生きるのである。

それがリアリティなんだろう。

             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2005年9月17日更新


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