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第15話 まぼろしのふるさと


 夏目漱石の「三四郎」の冒頭に、汽車の中で食べた弁当を、開いた窓から投げて捨てるシーンがある。「ガッガッ」と音をたて、弁当の殻はくるくる舞いながら畑の向こうに消えていく。今なら大変な不謹慎であるが、昔の光景としては当たり前のシーンであった。

 すべて人の行動に伴う始末は近所の自然が解消してくれた。重なって膨れ上がるほど、ひとがゴミを捨てることなどできなかった。今、富士山、尾瀬でのし尿が大問題になり、南極の資材ごみを持ち帰るなどということが起こっている。

 幕末・明治・昭和初期には火事場跡の古釘ですら拾えば売れたという。 ところが壁が崩れた頃の東ドイツにはそれがあった。線路の脇にはぼうぼうと草が生え、街は日曜日の午前のように静かで人影がない。物音はトランジスタラジオの高い音だけ。割れたガラスは何年も割れたまま。屋根のブリキは赤く錆びている。捨てた弁当箱にはカタツムリが這い、やがて蟻が食い尽くす。こんな風景が暫くキープされていた。

 そして僕が感じるのは、荒廃ではなく恐ろしいまでのノスタルジーである。取り囲んでいるのは自然の荒荒しい無慈悲さと、人を「動物として」迎え入れ、包んでいる慈悲であった。あの風景をもう1度見てみたい。アスファルト道路が真夏にはひん曲がり、おおぞらにアポロが飛んでいなかった天然素材の風景。 もしかして、今やドイツにも無い風景が、すぐそばにあるのではないか。

 北朝鮮が統一へ向かって歩み始めた。大きな壁に閉ざされていたあちらの空気の中には、55年前の花の種が含まれているのではないか?犬が首輪も付けず、走り回って敷石の上で肉球を滑らせているのではないか?僕の頭の中の幻の風景である。

             ◎ノノ◎
            (・●・)

「では、またお会いしましょう」 2000年6月21日


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