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第2話 寒戸(サムト)の婆(ばあ)


 黄昏(たそがれ)に女や子供が家の外に出ていると、よく神隠(かみかくし)にあうことはどこも同じ。松崎村の寒戸(サムト)というところの民家で、若い娘が梨の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置いたまま行方(ゆくえ)知れずになりました。

松崎村は周辺、サムトの婆が二度と戻って来ないように、道に結界を立てたのがの青笹。

 三十年あまり過ぎたある日、親類の人々がその家に集まっているところへ、極めて老いさらばえたその女が帰ってきました。どうして帰つて来たかと聞けば、皆に会いたくて帰ってきたといいました。そしてまた行かなければといい、再びどこへともなく消えてしまいました。その日は風の烈(はげ)しく吹く日でした。

 それで遠野の人々は、今でも風の騒がしい日には、今日はサムトの婆が帰つて来そうな日だといいます。


原文

遠野物語8

神隠(かみかく)

黄昏(たそがれ)1に女や子共(こども)2の家の外に出て居(お)る者はよく神隠(かみかく)3にあふうことは他の国々(くにぐに)4と同じ。松崎村の寒戸(サムト)と云(い)ふ所の民家5にて、若き娘梨の樹の下に草履(わらじ)を脱ぎ置きたるまゝ(ま)行方知(ゆくえし)らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音(しんるいちいん)6の人々其家(そのいえ)に集まりてありし処へ、極めて老いさらぼひて7其女(そのおんな)帰り来れり。如何(いか)にして帰つて来たかと問えば、人々に逢いたかりし故(ゆえ)帰りしなり。さらば又(また)行かんとて、再び跡を留(とど)めず行き失せたり。其日(そのひ)は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷(とおのごう)の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムト8の婆(ばあ)が帰つて来そうな日なりと云ふ。

1黄昏:日がおちて人の見わけがつかないころ。夕暮れのうす暗い頃。夕方。日暮れどき。
2子共:子供。
3神隠し:娘、子供などの行方が突然わからなくなること。
4他の国々と同じ:遠野郷以外の他の郷と同じ。
5民家:百姓家(ひゃくしょうや)。
6知音:互いに信じ合っている友人、知り合い、知人。
7老いさらぼひて(さらばえて):老いやせ衰(おとろ)えて。
8サムト:松崎村に登戸(のぼと)という小字はあるがサムトという地名はない。毛筆本ではサムトの左に[寒渡]と付記されている。


柳田国男に遠野物語を語り聞かせた佐々木貴善(きぜん)は、1930年3月刊「民俗文芸特輯(とくしゅう)」第2号に「縁女綺聞」で、寒戸(サムト)の婆(ばあ)に似た話を発表しています。

其話(そのはなし)は、岩手県上閉伊郡(かみへいぐん)松崎村、登戸(のぼと)の茂助(もすけ)と云ふ家にあつた事、此の家は今でもかなりの豪家(ごうか)9であるが、昔此(こ)の家の娘が、秋の頃でもあつたか、裏の梨の木の下に草鞋(わらじ)を脱いで置いたまま行方不明になつた。勿論(もちろん)も其の當座(とうざ)10は大騒ぎで探したけれども、やはり皆目知れぬので11、其のままに歳月を過ごしてゐた。然(しか)し幾十年目かの或る大風の日に、其の娘はひどく奇怪な山婆(やまんば)となつて家の人達に遭ひ度(あいた)くて来たと云つてわさわさと音を立てゝ来た。その姿態(したい)12は全然13話に聞くところの山婆(やまんば)であつて、肌には苔(こけ)が生え、指の爪が何れも二三寸(にさんずん)14にも伸びて居た。さうして一夜泊(いちやどま)りで帰つたが、それからは毎年続けて同じ季節にやつて来た。矢張(やは)り手土産(てみやげ)には菌(きのこ)や葡萄の干物であつたといふ。礼返(れいがえ)しには餅を搗(つ)いてこの家では持たしてやつた。然るに其の山婆の往還(おうかん)の都度(つど)には数日に渉(わた)つて必ず大暴風があるので、季節が季節だから一郷一村(いちごういっそん)非常に難渋(なんじゅう)15をし、ついに村方(むらかた)16の厳重な掛合(かけあ)17となり、何とかして其の老婆の再び来ないように封(ふう)じてくれとの談判であつた。茂助の家では仕方(しかた)なく一郷の名だたる巫女(みこ)山伏(やまぶし)(ども)を頼んで同郡青笹村(あおざさむら)と自分の村との境の所に一つの石塔を立てゝ今後此処(ここ)より村内(そんない)には来るなと云つて厳封(げんぷう)してしまつた。其の後は山婆(やまんば)は来なくなつた。


9豪家:その地方で財産があり勢力のある家がら。
10當座:しばらくの間
11皆目知れぬ:まったくわからない
12姿態:姿やからだつき[姿体(したい)、姿容(ようし)]。
13全然:全く、完全に、ことごとく、余すところのないようす。
14二三寸:6cm〜9cm。
15難渋:困り苦しむこと。
16村方:江戸時代、郡代・代官の下で末端の民政に従事した、庄屋・名主・組頭・長百姓・年寄・百姓代(脇百姓)の総称。村役人。村方。
17掛合:談判。交渉。


其の石塔も大正の初年の頃までは立つてあつたが、先年の大洪水で流出してしまつた。今から六七年(ろくしちねん)ほども前の話である。自分等(じぶんら)の稚(おさな)くて育つた時分(じぶん)までは18、大嵐のする日など、今日は登戸(のぼと)の茂助婆様(もんすけばさま)が来る日だと、よく老人達(ろうじんたち)が云ふのを聴いて記憶して居た。尠(すく)なくとも如斯(かくのごとく)、山の物(もの)19に攫(さら)20はれて行つて婚嫁(こんか)21し、それが老齢になつて里に還(かえ)つても安心が出来る態(なり)の有様(ありさま)になつた時、初めて夫から里還(さとかえ)りを許されて、斯く時々故郷の人々に逢ひに来られる。さう謂う事だらうと思われるが、如上(じょじょう)22二話のみならず、斯のような話が諸所方々(しょしょほうぼう)にあつたらしい、又或る一面には山の物に嫁(とつ)いだまま、一生山に埋もれて、再び里には還つて来なかった者も幾何(いくばく)もあつたであろう23


18自分等...:私たちが育った子供の頃までは
19山の物:山男など
20攫:さらう、つかみとって、連れ去る。人攫(ひとさらい)
21婚嫁:嫁入りすること。
22如上:上に述べた
23幾何:いくつかはあったであろう


寒戸 (サムト)の婆(ばあ)の話は、読んだ人に強烈な印象を残します。寒戸(サムト)という地名も大暴風によく似合います。ところが遠野には寒戸さむとという地名はなく、柳田国男が佐々木喜善の話を聞き違えたとする説、ミスプリントだとする説、佐々木喜善が既に発表していた「舘(たて)の家」にサムトの婆が登場するところから、喜善が意識して語った言葉であるという説、未だにどれも定説に至っていません。

神隠しは女子供などが理由もわからずに急にいなくなることで、神や山男に攫われて行つて行方知れずになることと考えられていました。草鞋をそろえてあることは、覚悟かくごの行方知れずです。遠野物語が明治43年(1910年)に刊行され、その79年後の平成元年に遠野出身の民俗学者菊池照雄が「山深き遠野の里の物語せよ(梟ふくろう社刊)」が画期的な論究を行っています。

登戸(のぼと)には旧家(きゅうか)が二軒あり、屋号24を上登戸(かみのぼ)と、下登戸(しものぼと)と言う。神隠しにあった娘の名はサダといい、下登戸の現当主佐々木磯吉(明治41年生まれ)の四代前のことである。家系を追うと、佐々木磯吉、A.蔵吉(磯吉の父)、B.磯吉(祖父)、C.磯右ェ門(曾祖父)、D.茂助(曾祖父の父)に遡さかのぼり、茂助の娘サダが神隠かみかくしに遭あったのは明治の初年頃であろうといいます。なお、茂助の墓石は洪水で水没し、位牌(いはい)も流出し正確にはわからなくなっているが、ほぼ幕末から明治維新前後の人であろう、また、娘サダが山に入った理由、その年齢、どこで孤独の死をとげたかは下登戸のぼとの子孫には伝わってはいない(同書12頁〜17頁)。

女性が狂気によって日常的な人間関係に順応できず、救済と逃避を求め、フラフラと山に入ることを「寒戸(サムト)の婆(バア)症候群((しょうこうぐん)」と名付けた精神科医がいるように、この話には恐ろしさ、忌むべき者といったことのほか、哀れさが影のようにひそんでおり、読む者を引きつけ忘れられなくしてしまうようです。

24屋号:姓(みょうじ)の他につけた家や商店の呼び名




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